あいぽんの物語

読まなくてもいいです。あいぽんの壮絶な物語

人生振り返る?いや、知らんがなwww

 

という

「私に全く興味ない人」がここに辿り着いたとしてもとある小説を読む感覚でも " 何かしらの気づきはある "記事になっています。

 

暇つぶし程度に読んでみてください。

 

とはいえ、誰にも読まれない前提で家庭の恥も全てさらけ出しているのでやっぱり読まなくてもいいです・・・笑

 

記事を書いている2022年5月現在、4人家族+愛猫2匹と2018年6月に建てたマイホームで暮らしています。

旦那は大型トラックの運転手で、長距離ではないものの労働時間の関係で週末しか帰ってこれません。(周りからよく羨ましいと言われる、週末婚のような感じw)

私はというと、在宅フリーランスとして毎日、家の端っこにあるMacのデスクトップに向かっていろんなポジションの仕事をしながらマルチに働いています。

 

 

とはいえ、2年前は時給900円の日配と冷凍食品の品出しパート主婦。3年前までは、結婚してから9年間、ずっと専業主婦だったんですけどね。

 

一見、順調そうに見える今の生活からは想像できない私の過去について、初めて公の場で全てを綴ろうと思います。

 

 

どうせ、誰も読まないからね、こんな記事w

 

 

なぜ過去を綴るのが今なのか、それは「表に感情をうまく出せない自分を、断ち切りたくなったから」です。

 

今まで、自分の身に起こるいいことも悪いことも大抵「どうでもいい」と感情に目を向けずに片付けてしまっていると感じていて

 

覚えている過去の感じた感情を全て吐き出せば、全ての経験を全て受け入れ、浄化できて、もっと" 自分がなりたい自分 "に成長できる気がしたんです。

 

ここまで読んで「なんかおもろそうやん」と思ってくださった方は・・・ただの変人です。

 

 

なんだかんだ言って愛されていたけど、今ならわかる寂しかった幼少期の記憶

 

私は、1990年11月14日に、青森県の古い助産院で生まれました。

母は未婚のシングルマザー。実家はあったものの親と仲が悪く、妊娠中〜私が生まれてからもりんご農家の親戚の家でお世話になっていたそうです。

 

私が生後10ヶ月の時に、私の実の父にあたる男に被せられた借金を返すために、知り合いがいる兵庫に私を連れて母は引っ越しました。

母は、朝からお昼まで喫茶店で働き、夜はスナックで働いたそうです。

 

私はまだ赤ちゃん。でも母はお金を返すために働かなきゃいけない。知人に相談し、泣きながら私を施設に預けたそうです。

 

そこから私の幼少期の記憶。

施設で、先生が、フォークを握りしめたままの私を見下ろしながら、無表情で暗闇に閉じ込めたこと。トイレなのかお風呂場なのか、タイル張りの一室で突き飛ばされたことこの時の感情は覚えていません。

 

この時のことは、母からも聞きました。
母は、週末になるとお菓子を持って施設に必ず私に会いにきていたそうです。

 

でも、施設の人たちからは煙たがられていたらしく、「来るな」と何度も言われていたと。
母は必ず迎えにくるから毎週会いにくると言って、施設の人に何を言われても通っていたんだそう。

 

そんなある日、顔にアザのある私をみた日があったと言っていました。
施設の人からは「お風呂で転んだ」と聞いていたみたいで、違和感を感じていたと言っていました。

 

それから、2歳頃。

当時の施設って、一度預けてしまうと親元に帰してもらえなくなるという話があって、母は弁護士を連れて私を施設に迎えに行きました。
毎週会いに行っていたこともあって、すんなり引き渡されたらしいですが。笑

 

その後も母は夜のスナックの仕事一本で、働き続けていました。
私は、また別の夜間に自宅に帰れるタイプの、おじいちゃん先生の自宅保育施設みたいなところに変わりました。

 

そこでは、裸足のまま車から降りて、おじいちゃん先生の家に入るまでの玄関先に、ダンゴムシがいっぱいいて怖かった記憶や

私以外に、子供が複数人いたこと、おじいちゃん先生とお風呂に入るのがとにかく嫌で泣いていたこと、

 

おじいちゃん先生の家の仏壇部屋が怖かったこと、夜中に毛布に包まれて母の元に帰っていたこと、

楽しかった記憶はほとんどないです。だからと言って、トラウマに感じるほどの嫌な思い出でもないのですが。

 

そして、5歳の時に新しい父が来た。

 

 

【5歳〜小学生】新しい家、新しい家族、そして、逆らえない生活が始まった

 

「今日からこの人のこと、パパって呼んで^^」

 

新しい父は、母のお店に来たお客さんで、出会って2週間のスピード婚

 

母曰く、結婚はお酒の勢いとノリだったそうで本気で好きで結婚したわけじゃなかったらしいのですが、、当時5歳、「パパって呼んで^^」と言われた時の自分の感情が何も感じない「無」だったんです。

 

一般的に、新しいパパに対しての恐怖心や、好奇心少なからずあるものなのかなって思うのですが、結婚する前に何度も遊びに行ったりだとか、関係構築したわけでもなかったので

 

嬉しくもなく、不快でもなく、本当に何も感じないむしろどうでもいいというか、興味がなかったというか。

 

そうして、新しい家族の生活がスタートしました。

 

新しい父は優しくもあり、キングであり、心が弱い人だった

 

「逆らったら殺される」

 

なぜか、母の緊張感から感じ取っていたのか、父が家にいる時は心が休まらなかった。初めからめちゃくちゃ怒られたとかではなく夫婦喧嘩が頻繁にあったことが原因かなって思います。これは高校生まで続くのですが・・・

 

 

父との生活で思い出せる事といえば、

 

  • ごはんは母の手料理(5品以上は絶対)をみんなで一緒に食べる
  • 行事ごとも必ず家族みんな一緒にお祝いする
  • 父の言うことは絶対
  • 父が仕事から帰ってきたら、正座
  • 私のことで育児についての食い違いがあるたびに夫婦喧嘩
    (怒号と暴力で壁に複数穴が開いていた)
  • 宿題がわからないと物差しで殴られた
  • 門限を1秒でもすぎると締め出し
  • ご飯を食べないと締め出し(少食の私は、吐くまで食わされたこともあった)
  • 誕生日プレゼントは必ず欲しいものをくれた
  • 釣りやゴルフに連れてってくれた

 

子育てをしたことがない父だから、いきなり5歳の娘ができてわからないことも多かったと思う。アウトドアが好きな父だったので、外遊びは天才的でした。

 

でも、私は父のことを好きでも嫌いでもなくただ決まった暗黙のルールに従うのが当たり前だと思って生活してたんです。

 

この時に植え付けられた感情は「恐怖」


今も変わらず人の怒号を聞いたり、怒られることに恐怖心が高まり涙が出ます。
自分が悪くなくても、自分には関係なくても起きてしまう自然現象です。

 

 

小学2年生から、2年おきに4人妹弟が生まれる

 

今では6人妹弟の長女ですが、初めて妹が生まれた時は小さくて可愛かった。でも、嬉しいとか、楽しみ!みたいな感情ではなく、

「妹か、へ〜」といった感じ。それよりも、母が出産で入院している間は父と家で2人「怖かった」それしか覚えてない。

 

それから私が、4年生、6年生、中2の時に妹弟達が生まれた。

妹弟が増えて、"  母に相手にされない "とか " 寂しい "と思っとことはなく朝、私が小学校に行くときに夜泣きで疲れて起きてこない母を起こさないように学校に行っていたり

 

とにかく母に面倒をかけまいと思っている大人の顔色を見て察知できる子供らしくない子供でした。

 

母に対してたまに、すぐにバレる嘘を平気でつくということをしていた記憶があってそれは、無意識に母に注目して欲しいために自然とやっていた行動だったのかなと、今自分の子供たちをみてて気づきました。

 

 

その時の父はというと、ほとんど夜中に帰宅して、育児も家事もしないのがデフォルト。

なんなら母は、夜中に帰ってきた父にご飯を作ってた。夜泣きだのなんだので母は疲れてたはずなのに。

 

買い物に行くにも、母は当時免許を持ってなかったので免許を取りに行く前の買い物スタイルが

 

自転車で、次女前、三女後ろ、長男抱っこ紐、次男お腹の中私はマイチャリ、って感じで買い物に行ってた。

 

母、5人乗り・・・プラス買い物の荷物って考えられないって思うけど、普通にやってたんですよ。

 

最近になって聞いた話、育児も家事もしない父のことを母はどう思ってたのか聞くと、

 

夜泣きに関して「うるさいって言われたことがないから楽」とそれだけでよかったんだそう。

 

母はなんでも1人でこなしてた(そうするしかなかった)、スーパーかぁちゃんだ。

 

 

そんな父と母は、何度も離婚の危機があって、母が父との喧嘩の後に言う「出て行こう」という合図で

 

赤いゴリラのキーホルダーがついたリュックにお気に入りのワイドパンツと、Tシャツとピアノの発表会で買ってもらった花柄のワンピースとゲームボーイを詰めていました。

 

詰め終わると、夜中に家の前にある公園に行ってブランコに乗りながら母がボーッとしているのを眺めてたあの景色は今でもはっきり覚えています。

 

母は専業主婦で、毎月食費10万円だけを渡されて支払い関係は全て父がやっていたこともあって、子供を抱えて実家に帰るお金も持ってないし

頼れる身内も、相談に乗ってくれる友達もいなかったので渋々、離婚せずに普段の生活に戻ってました。

 

そんな、普通なら心が休まらない家庭環境だったからか、私は自分でもよくわからない行動を頻繁にするようになってたんですよね。

 

 

小学生でやっていた数々の奇行

 

自分の部屋で、物音を立てずに髪の毛や、服を引っ張って静かに暴れるのが日課でした。

 

5分〜10分くらい経つと気分が落ち着き何食わぬ顔で親のいるリビングに戻るんですけどね。

 

それから、小学校高学年、何度も夜中に胃腸炎に襲われていました。特に体は弱い方でもなく外遊びが好きで駆け回るほど。なのに、胃腸炎にはよくかかっていました。

 

胃腸炎が来る、あの軽い胃痛を覚えてしまうほど。(当時はただの食べ過ぎだと思って親に言わなかったけど)

 

夢遊病も何度もあって、母が次の日の朝笑いながら、わたしの奇行について話してくれたりもありました。

 

生後間もない妹のこと、可愛くてい方ないはずなのに、つねったり叩いたりもした。(でも、傷つけたいとか消えろとか思っていたわけではなく、ただただ無意識に)

 

感情として認識していなかっただけで、脳や内臓には、かなりの負荷がかかっていたんだなと、大人になってからやっと、あの時の私に何が起きていたのか理解できた気がします。

 

この頃にはもう、感情を抑える我慢強さが鍛えられていました。

 

【中学〜高校生】家庭は着々と崩壊に近づき、ついに色々表に出る

 

中学生になり、7人でアパートは狭苦しく感じてきた頃。父が中古の一軒家を見つけてきた。

 

私を含め、子供たちはワクワクしてて、かなり大きなお屋敷のような古い一軒家でもあまりの広さに興奮しました。

 

おばあちゃんがまだ住んでいたんだけど1人でこの家は広すぎるから早く売りたかったみたいで・・・

父は建築関係の自営業をしていたので自分でリフォームすれば大丈夫!と言ってほぼ即決でした。

 

ただ、よくわからない仏像がいっぱい並んでいたり、部屋の居てるところにお札が貼ってあったりとちょっとした違和感みたいなものはありました。

でも、広いからそんな事はどうでもいいって感じ。母は全く賛成していませんでしたが。

 

そして、この古い一軒家に住み始めてから着々と家族は崩壊の道を辿ることに

 

知らない人と一緒に住む、変な環境と私の非行

 

私たち家族が住む前から、知らないおじさんが住んでいました(冷静に考えて気味悪いよねw)

 

その知らないおじさんと言うのは、父の自営業の従業員でした。従業員のおじさんは、私たち家族と一緒に生活することになりました。

母は、呆れて言葉が出なかったそう。(当たり前)子供もいて、年頃の娘(私)もいるのにと。

 

この時、母は自分の家だと思ったことはなく心が休まったこともなかったと言っていました。ちなみに、この住み込みの従業員は3人くらい入れ替わった記憶があります。

 

1人目は「住む家も飯も用意してある」と言う理由で給料をもらえなかったようで母の貴金属を盗んで消えました。

2人目、3人目に関してはもう記憶にありませんが全員ムショ上がりだったというのは後から知りました・・・

 

当時の私の方はというと、家が広くなったおかげで親の監視をすり抜けられるようになって行きました。夜中家を抜け出して友達とカラオケに行ったり、男の家に泊まり歩くようになって遊び呆けていました。

 

普段の門限は18時、花火大会やイベントごとも禁止されていたのでその反動だと思います。

 

夜中に家を抜け出してバレた事はないけれど、中学を卒業してすぐのこと、父が仕事でいなかったので、当時付き合っていたギャル男の彼氏を家に呼んだことがあったんです。

 

そこで事件は起きました。

 

『ベットでくっついていたところを父に見られる』

 

案の定、血の気の多い父は「おどれ、わいの娘に何さらしてくれとんじゃゴルァァ!!」と言いながら、勢いよくベットの方へ向かってくる(汗)

私から彼をひっぺがし、ベッドは真っ二つに折れて、部屋の床に置いてあったスーパーファミコンは踏まれて中の基盤が見えていました。

 

父は彼に馬乗りになって、ボッコボコにした。

母が止めに入ってきて、彼に「二度と来るな!!」と吐き捨て彼は謝りながら靴を抱えて、裸足のまま家を出て行きました。

 

部屋に取り残された私は「このままここにいたら殺される」本気でそう思いました。

携帯だけ握りしめて、走って家から飛び出し、自転車で彼を追いかけ、彼の家に行ったんです。私が初めて面と向かってやった反抗は、この家出でした。

 

物心ついた頃の感情は、ほぼ恐怖という感情で支配されていました。ただどうにかしてスル抜けて逃げられないものか。そんなことばかり考えていた気がします。

 

不運は止まらない、父の逮捕と破産

 

母は、次は何が起きるのかと不安な日々を過ごしていたそうです。

この古い中古の一軒家は、写真を撮るとオーブは写るし霊感のある友達にも「なんかいるね、この家」とずっと言われていました。

 

霊感のない母も、初めから気持ち悪さを感じていたようでした。

 

ある日、高校でいつものように友達と廊下でバカなことをやっていると英語の先生が真剣な顔をして私にこう言いました。

 

「お母さん、体調悪いみたい、すぐに帰ってあげて」と。

 

私は最悪な状況を想像をしながら、全力でチャリを漕いで家に帰りました。

 

家について急いで母がいつもいるキッチンへ向かうと父が警察に連れて行かれた。と言う母の姿。

 

私は、てっきり母が怪我でもしたのかと思っていたのでいつもより少し元気がないくらいで普通に話しかけている状況が理解できず、

 

父の逮捕に驚く事はありませんでした。

 

捕まった理由は伏せますが、父は1週間ほどですぐに帰ってきました。母は、「次はないよ。」と言って何事もなかったように思えたんですが・・・

 

逮捕されて数ヶ月後、この古い中古の一軒家を手放す出来事がありました。それが

 

 

父の使い込みで、自己破産

 

父は母に隠していた多額の借金があり、気づいた時には生活は火の車。

 

今まで、誕生日プレゼントもサンタさんも、子供達全員欲しいものはなんだって買ってもらえてた。父の従業員や仕事仲間が集まってよく宴会もしてた。

 

ちょっとだけ裕福な家庭だと思ってたけど本当は全く違ったんだ。

 

そういえば、この家に引っ越してきてから母の笑ってる顔、記憶にないかも。

 

だからと言って、私の感情に変化はない。当時の好きだった人(今の旦那)のことしか頭になかったからw
やさしい、純粋な愛情を求めてたのかもしれない・・・

 

 

二度目の引越しの末、父はどんどんクズ男に・・・

 

自己破産が済んで、古い中古の一軒家を手放し、6畳2間の小さなアパートに引越した。

 

アパートに引っ越してすぐ、母の妊娠が発覚。四女が生まれて、8人家族になった。

 

当時私は18歳、高校3年で進路も就職することが決まってた。ぶっちゃけ、こんな状況でメイクの専門学校に行きたいなんて言えなかったしね。

とにかく自分の携帯代と免許代だけは確保しようとバイトに明け暮れました。

 

そして、ここからが本題と言っても過言ではないのですが、高校3年の時の出来事が、私が今の仕事をする気づきをくれた内容でもあります。

 

母は収入がないから、私が学校休みの日に、私に妹弟のことを預けて父の仕事をちょっとずつ手伝うようになってました。

 

ある日、父の元に孤独死をしたお宅の清掃の依頼が来た父は迷わず母に行かせたんです。自分はやりたくないと。

母は、少しでも生活費を稼ぐため、セミがうるさい夏の蒸し暑い日に、何ヶ月も放置された酷く汚れたアパートの一室の清掃をしに行っていました。

 

とにかく臭いが酷く、獣臭が体にまとわりついていると言って母は1ヶ月以上食欲もなくガリガリに痩せこけて、体はいつも震えていました。

そんな姿になってしまっている母をよそに、だんだん父がずっと家にい流ようになり、母が代わりに仕事へ行くように・・・

 

私としては、何もしてくれない父が家にいるのが本当に苦痛だった。

 

ただ、そんな状況でも唯一母がほっとした顔を見せた日がありました。それは、この清掃の報酬をいただいた時です。

 

母は、父から「この仕事は7万円やから」と聞いていたらしいのですが、清掃完了の報告をして、直接報酬の支払いがあったそう。その額なんと40万円。

 

父は自己破産してもなお、働かずとも33万円を自分の懐に入れようとしていたんです。

 

 

その時に私は、男に頼らなくても、女は1人で生きていける仕事を持ってなきゃ、自分の力で稼げることをしなきゃいけない。

 

と、感じたことがあります。とにかく、見ていて母がかわいそうだった。

 

この時、人生で初めて父を◯したいと思うように。

 

 

楽しみにしていた高校の卒業旅行当日、父が連行される

 

朝、卒業旅行の日だというのに私はなんの準備もしていないことに気づきパッと目が覚めた瞬間に、

 

アパートのガラス扉の玄関に人が立っているのが見えて「コンコン」と2回誰かがノックした。

私は、すぐになぜかわからないけど察知して状況を整理。「警察だ・・・」母も私と同じことを一瞬で感じたみたいで、玄関のドアを開けた。

 

母は「まだ子供がいるので待ってください」と警察に言い父に小声で、「心当たりはあるんやな」と問い詰めてた。

特に父は逆らいもせず、暴れる様子もなく、静かに家を出て行きました。

 

いうまでもないですが、卒業旅行へは行かず、6畳のリビングで母と職場の人が話をしている間、隣にある6畳の部屋で、静かに妹の面倒を見ていました。

父が連行された時、卒業旅行に行けなかった悔しさもなく、寂しさもなくやっぱり感情はどこにもなく、「全部どうでもいいや〜」と思っていました。

 

 

私の入社式の日、長い戦いに終止符。働きまくる長女

 

私は2008年の100年に一度のリーマンショックの時、なんとか小さな工場で働けることになり無事就職。

 

3月2日、入社式のハレの日に、母と父は離婚しました。

私は、父がいなくなった事でとにかく働きました。就職先はリーマンショックが原因で週3日しか稼働してなかったので

派遣とイベントコンパニオンと会社員で休みなくフル稼働でした。

 

ちなみに、この時は意外としんどいという感覚はなくとにかく私ができる仕事はやっとこ〜くらいのノリで

ちゃっかり友達とよくパチンコにも行っていました。(当時はよく勝てたんですw)

私が家にお金を入れてても、仕事面でしんどいと思ってなかったのはやりたいことを全部やっててうまく遊んでいたからだと思います。

 

 

仕事も、友達も、彼氏も、全部手放す決意

 

就職をして3ヶ月、職場にも慣れて、上司も可愛がってくれて少しずつ" 普通 "の生活へと向かっていた矢先。

母の父(青森にいるおじいちゃん)が孤独死をしたという連絡がきた。

当然、家族全員分の旅費なんて無い。母が頼ったのは、私の実の父だった。

 

母は、申し訳なさそうに私にこう言った「お父さんに、旅費出してもらいたいんやけど、一緒に来てくれへん?」と。

私が「別にええでー」と軽く返事をすると母はびっくりしてた。

 

ここでも私は、実の父に会うことなんて別になんとも思わないしどうでも良かったんだよね。

 

過去に母にしたことも含めて、居酒屋での話し合いが無事終わり、旅費をいただいておじいちゃんのお葬式に行った。

 

おじいちゃんが亡くなったことで、母の実家は空き家になってしまう。親戚たちに、「帰って来たら?離婚もしたことやし」と言われてた母が、ずっと悩んでいたのを私は気づいてた。

 

家に帰宅してからも、母はずっと暗かった。

 

私は自分のことよりも、これからの生活や妹弟たちのこと、母のことを考えると、いてもたってもいられなくてはっきり言うことに。

「みんなで青森行ったらえんちゃん」母は私からいうのを待ってたんだよね。おじいちゃんがこのタイミングで亡くなったのは「青森に帰ってこい」と言う、メッセージだったのかもしれないと思ったんだ。

 

2009年8月、母は1200キロ離れた青森まで車で行くことを決断。私は会社から選別をいただき、仲の良かった職場の人に送別会、個々に選別までいただいて

 

よく会社終わりにパチンコに行っていたことを知っていた人から、「パチンコ行くなよwww」と茶化されて笑かしてもらった。

地元の友達からは、手作りのアルバムや、行きの車の中で食べてと、お菓子の詰め合わせなどを大量にもらった

 

当時付き合っていた彼氏(今の旦那)は車に新しいナビを自費でつけてくれて、車をメンテナンスに出してくれたりもした。秋にある祭りの時に、会いに帰って来て欲しい、と飛行機代まで持たせてくれた。

この時、私は周りに恵まれていたと実感し初めて「寂しい」と心から思った。

 

最終章、馴染めなくて再発した胃腸炎、私の再決断

 

青森に住み始めて、親戚のりんご畑で仕事を手伝ったり村役場の税務課に勤めてみたりしたけど、仲良くなれる人もいなくて、家族以外みんな知らない場所でなんの楽しみもない地獄でしかなかった。

だってさ、当時19歳、まだ遊びたい盛りぶっちゃけ、父から解放されて自由になって門限もなくて

 

本当はわがまま放題したい時期だったんだ。でもそんなこと母に言ったら母は自分を責めるだろう。だから何も言わずに我慢してたけど、

そんな思いが募って募って募りまくった結果胃腸炎が出てきて、一時は本当に死ぬんじゃないかというくらいエンドレス嘔吐。母も、そんな私の姿を見て死ぬんじゃないかって思ってたらしい。

 

 

守ってあげられなくてごめんなさい

 

私は、胃腸炎の地獄が少し落ち着いた頃、彼氏(今の旦那)に相談したんよね。「そっちに帰りたい」と。

めちゃくちゃわがままやし、青森に一緒に行こって言ったのに私は1年で母を裏切った。帰りたいってなった時、1週間母と口を聞かなかった。本当は家族とも離れたくない、でももう辛すぎて限界・・・

 

そして、長い話し合いの結果私は彼の実家で早世することが決まった。母には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも、決断に迷いはなかったよ。

寝台列車に乗って1人で彼のもとへ帰り、半年後・・・

 

妊娠がわかって、自分の家庭を持つことになりました。旦那との話は別の記事で。

 

 

自分の育った環境を振り返ってみたら・・・

 

ここまで読む人はいないと思うから、好き勝手書いてみる。

 

改めて自分の過去の記憶を書き出して思ったのは家庭環境に関しては本当に無関心だったからこそ「家庭環境が悪かったから自分がこうなった」というのは全くなくて

 

むしろ、自分の人生、いつまでも家庭環境のせいにして逃げたり言い訳ばっかしてる人、それは甘えだ。と思ってる。

今の仕事を始めてから余計にそういうふうに思うようになった。責任転換をして、自分が1番正しいとか思ってる人、自分の人生は自分の意思次第でどうにでもなるから。

 

そして、私はこの経験を通して今に生きていることがある。それは、人の痛みが手に取るようにわかること。ほとんどの物事に偏見がないこと。

いろんなこと思い出せた、、書いて良かった。やっぱり我慢は毒だ。そして、もっとわがままに生きたい。生きよう。

 

 

 

 

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